連載・コラム
スイーツとの付き合い方を考える
Touch for World代表・パーソナルセラピスト 小松ゆり子 です。
「Magellan」では、五感至上主義者&セラピストの視点から「明日を選ぶ羅針盤」となるあれこれを綴っています。
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「神」とは何か。「神性」とは「神聖」とは何か。
と、いきなり大きすぎるテーマを掲げてみる。
先日、イスラエルとヨーロッパを旅した。
厳密にいうと、マグダラのマリア、という2000年以上前に生きた女性の足跡を辿ってイスラエルから、ローマ・バチカンへ。
そこから船で地中海の島々をめぐり、マルセイユからサント・マリー・ドゥ・ラ・メール(海から来たマリアたち)という街へ向かい、さらにマグダラのマリアが晩年を瞑想しながら過ごしたというサント・ボームの岩山まで、全部で12日間の旅。
マグダラのマリアは、イエスに従い付き添っていた女性の一人であり、イエスの死と復活を見届けた女性として新約聖書の中に記載されている。
また、7つの悪霊がついていたのをイエスが祓った、娼婦であった罪を悔い改めた女、などと言われてきたけれど、「娼婦説」は近年になって正式に否定されている。
その一方で「異端」として歴史から消されていた「マリアの福音書」の写本などが発見され、「マグダラのマリアはイエスの伴侶であったのでは?」というロマンあふれる説もある。
あまりに濃い旅だったので、とりあえず多くのことを割愛するけれど(気になる方はamebloで少しずつアップしている「静寂とカオスと真実〜マグダラのマリア巡礼」ををご覧ください。)。
非常にざっくりいうと、私の中で「神」や「神性」というものの考察に一区切りついた心持ち。
いや、たぶんこれからもまたアップデートされるとは思うのだけど。
マグダラのマリアについて知るには、まず「イエス・キリスト」について知らねばならない。
だから、今回のイスラエルはたった2日という短い時間にマグダラのマリアの生まれた街や死海を訪れる他に、イエスの生涯をギュッと詰め込んだルートを辿った。
聖母マリアが受胎告知を受けたナザレ。
そしてイエスが布教して歩き、数々の奇跡を起こしたガリラヤ湖畔。
イエスが「メシア(救世主)」として熱烈に歓迎され、そしてその手のひらを返すような形で十字架に架けられたエルサレム。
それらの場所に足を運びながら感じたのは、歴史はいくらでも作り変えられてしまうということ。 「キリスト教」とイエスが言わんとしていることは区別する必要があるということ。
そして、「教会に神がいるわけではない」ということ。
素晴らしく美しい教会や聖堂、それらは全て後世の人びとが作り上げたもの。
その想いももちろん尊いけれど、本当に神聖な言葉に耳を傾けるのに、豪奢な建物はいらない。
美しい水、心地よい風、温かな光。
安心してそこにいられさえすれば良い。
イエスが実際に生きたその時には、教会などもちろんなくて。
ガリラヤ湖を臨みながら、あるい強い日差しを避けた洞窟の中で、地面に車座になって。
風の音にかき消されそうなイエスの声に、必死になって耳をそばだてたのだろう。
神の国はどこにあるのか。
聖なる人物の言葉を、わたし達は好きに解釈してしまう。
「神の国」がどんなに(自分的に)素晴らしいものか、と自分勝手に妄想してしまう。
ほんとうにイエスが伝えたかったものは何か。
実際にその場所を歩き、2000年の時を経ても変わらない風や匂い、太陽の光に身を浸し、足の裏から真実を感じてみる。
「永遠の命」とは「永遠の救い」とは何か。
イエスは、多くの人々に気づきを与える「無私の存在」だからこそ、「マスター」たり得たのだと思う。
でも、きっと宗教は「神」を信じるためのものではない。
イエスの教えは、自分を信じ、自分の内なる平安を得るためのもの。
イエスが言ったこと、示した行いを通じて、「自分の内なる神性に気づく」こと。
つまり、信じるべきは内なる神性。
それこそ永遠の救いであり、私たちの中にある永遠の命。
とはいえ、私たちは濁りが多き存在だから、その神性は曇り空にチラリとのぞく太陽のようにしか垣間見ることができない。
だから、そこへのガイドとしての「救世主(メシア)」や「宗教」が必要だったのだろう。
「サント・マリー・ドゥ・ラ・メール」で、マグダラのマリアの世話をしていたジプシーの娘「サラ」の祭りに参加した時のこと。(サラは、イエスとマグダラのマリアの娘では?という説もある)
サラはジプシーの守護聖人にもなっていて、祭りにはたくさんのジプシーが集う。
「黒マリア」とも言われるサラの像を海に返す儀式が終わったあと、海辺を歩く神父様に祝福を授けてもらっている方を見かけた。
「せっかくここまで来たし」と、少し軽い気持ちで私も祝福をお願いしてみた。
でも、神父様が、私の頭に優しく手を置き、祈りの言葉を口にしてくれた瞬間、自分でもよくわからないまま涙が込み上げてきたのだった。
正直言ってこの旅を通じて「教会」というものの存在に茶番感を感じ始めていたり、イエスの本心とは違う歴史が刻まれているのではないか、と宗教に対して懐疑的になっていた。
でも、この祝福の瞬間。
全身を包む「神聖」さというものに圧倒された。
それは、この神父様が生きている中で真摯に捧げてきた「祈り」。
それを媒介として「神聖」さの源泉につながった、そんな感覚だった。
神の「かけら」が、私たちの内にある。
「祈り」の中にこそ、神が宿る。
先ほどの話と矛盾するようだけれど、教会や聖堂を訪れて感動するのも、きっとそれらを作り上げる上で神への数多の祈りがあり、それが物質として具現化したものだからなんだろうと思う。
マグダラのマリアはイエスの死後、小舟でフランスの港町「サント・マリー・ドゥ・ラ・メール」へと流れ着く。そしてサント・ボームの洞窟に暮らし、天使によって誘われた岩山の頂上で、33年間祈りを捧げ続けたという。
岩山でこもるというと寂しげな印象がしてしまうけれど、おそらく、マグダラのマリアにとってのそれは、誰にも邪魔されない至福の時間だったのではないだろうか。
イエスの真の言葉を理解していたパートナーとして、知っていたのだと思う。
祈りを通じて、イエスとつながることを。
そして自らの内なる神性とつながることこそが、永遠の命であり永遠の救いだ、ということを。
現代では、「瞑想」をすることで、個人個人が内なる神性につながるチャンスがあるのかもしれない。「宗教」という媒介なしにも、神とつながっていく術を、私たちは知り始めている。
きっと神の国は、私たちの内側に。
私たちが変わると世界は変わる。
■ヴァイタル・タッチセラピー
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小松 ゆり子
Touch for World 代表/パーソナル・セラピスト/五感至上主義。音楽レーベル宣伝部プロモーターを経て、自然療法の世界へ。現代人の「身体性」を取り戻すこと、「心と身体、世界をつなぐ」をテーマとし、南青山のアトリエ「corpo e alma(コルポ・エ・アルマ)」を中心にセラピーやセミナーを行い、執筆、監修 も多数。東洋的な押圧とロングストロークやストレッチングを多用し、植物や鉱物の力をフュージョンさせたオリジナルメソッド「ヴァイタル・タッチセラピー」を提唱し、密度の濃い「パーソナル」なスタンスでオーダーメイドの施術を行う。音楽、カルチャーとセラピーを融合するイベントも多数開催。趣味は世界の癒しに触れる旅。