連載・コラム
スイーツとの付き合い方を考える
2019.6.12
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このコラムは、米国IBA認定ボディートーク施術士であり、また本メディア『Magellan』のプロデューサーであるわたくし鮫島未央が、心と身体と魂について「感じたこと」「気づいたこと」「見えたこと」などなどを徒然に綴っているものです。
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どういうわけだか理由は忘れてしまったけれど、今年に入ってからすぐの1月からつい先月くらいまで、わたしは何かに取り憑かれたかのようにひたすら、走っていた。
雑誌にランニング特集が組まれたり、皇居ランという言葉が流行ったりしてからもう随分経つけれど、その当時は完全に視界に入ることのなかった「走る」という行為に、なぜこんなに唐突にどハマりしたのか、自分でもわけがわからなかった。
わからなかったけれど、ひとつきっかけかなと思うのは「スロージョギング」という概念だったと思う。
ウォーキンギでもなく、ランニングでもなく、はたまたジョギングでもない、
「スロージョギング」。
なんでもかんでも協会がある昨今、もちろんこのスロージョギングの協会だってある。一般社団法人日本スロージョギング協会という。
その協会の公式サイトには、こんな文章が掲載されていた。
”ランニングは、健康づくりに最も好ましい有酸素運動です。しかし、ゆっくり走るジョギングすら、苦しくきついと思われ敬遠されがちです。
通常ヒトが走り出すスピードは時速6km近辺ですが、見た目にゆっくりですのでジョギングと言えます。しかし現代人は体力が低下していますので、この速度では身体に過剰な負担がかかってしまい、息が上がるほど強い運動になってしまう方が少なくありません。
そこで… 隣の方と話ができるくらいの運動の強さで行う
ジョギングをスロージョギングと定義しました。”
そう。そうなのである。
どうなのであるかというと、ちょうどいい強度。だったのである。
ウォーキングの経験は、誰しもがあるだろう(ほとんどの人が移動手段として日常的に歩いているわけなので)。わたしにもある。
確か学生時代、夏までにダイエットしよう!とかそんな理由で近所に住んでいる女友達と夜にてくてくと1時間ほど歩いていた。おしゃべりしたり、途中公園で休んでブランコに揺られたり(ダメじゃないか)して、なんだかとても楽しかったのを覚えている。
が、楽しかったー!で、終わってしまった。
その後は、お互いだんだん忙しくなり、行為そのものがフェイドアウトしていった。
そしてランニングの経験も、なくはない。
これまた確か、元旦か何かだっただろうか、「今年は走る!」と一念発起して、ウェアも一式揃えていざ、早朝に華麗に飛び出した。が、それこそ1か月も続かなかったような記憶がある。
理由はあってないようなものだ。早起きが辛かった。足が痛くなった。などなどであるが、要するに「楽しくなかった」に尽きるだろう。やめるのに理由はいらないが、続けるには絶対に「楽しさ」が必要なのだ、とそのときわたしは理解した。
だとしたら、ハアハアゼイゼイと苦しいだけのランニングが習慣になることは、わたしの人生ではないだろう、と。
ところが。ところがである。
「スロージョギング」は苦しくない、どころか、むちゃくちゃ楽しかったのだ。
この”むちゃくちゃ”という形容詞でぜひ伝わってほしい。とにかく楽しいの一言に尽きた。
まず、夜に走ることにしたので、早起きの辛さはなかった。
そして、隣の人とおしゃべりできる程度の速さ、と定義されているので、ハアハアゼイゼイと息が上がるスピードではないのだ。
足自体はジョギングなので、ウォーキングと比べたら若干地面を蹴り上げているものの、スピードはさほどあげない。なので、運動的な負荷はかかりつつ、疲労度が桁違いに少ない。それがスロージョギングなのである。
「スロージョギング」で検索してみると、その効果や身体的・心理的な変化などについて、多くの人が概ねポジティブで好意的な感想を書かれているので、もし興味があれば読んでみてほしいと思う。
今回、わざわざ原稿にしてまでわたしが言いたかったことは、「痩せた」とか「体力がついた」とか「健康になった」とか、そんなことではないのだ。
わたしはごくシンプルに、「自分の身体が、ゆっくりとしたペースで、適度な強度であれば、こんなにも快適に長時間走れるようにデザインされていた」というその事実にものすごく感動したのである。
そして、長いあいだ自分は体力がなく、運動が苦手で、しかも喘息もちなので心肺機能的に弱いので、動くということにコミットできずにいたのが、
動ける!走れる!楽しい!
という気持ちに、生まれて初めて至ったことが、本当に心から嬉しかったのだ。
動いただけで、世界が変わるという体験がそこにはあった。
例えば、1日ずっと座ってPCに向かって仕事をしていただけのわたしは、思考のベースが自然に「ない」に偏っていたように思う。
あれもない。これもない。
時間がない。
お金がない。
あの人からのメールがない。
やりたいことをする自由もなくて、なんにもできない。
そもそも、やりたいこともそんなにないかな。
みたいな、字面からもわかるとおり、ザ・停滞モードである。
それが、ひとたび外に出てゆっくりと走りだすやいなや、わたしは毎回驚きのあまり目をみはることになった。
繰り返し繰り返し、
前に進む脚がある。
気持ちよくゆれる腕がある。
息をめいっぱい吸い込む肺がある。
からだがどんどん 熱くなる。
ほてった肌を 冷やす風も。
ヘッドホンから聴こえる、
踊りたくなるようなリズムがある。
もうすぐ咲きそうな桜を見上げる。
わたしの上半身を支える腰を。
わたしの下半身を支える脚を。
どこまでもわたしの存在を支える、地球の表面。
おそらく走り続けているために、若干の意識の変容状態も手伝って、わたしは何度も頭ではなく、どこか別の場所で「こんなにも、世界には何もかもが、あるんだ……!」という気持ちになった。
わたしには、いのちが、身体が、
「ある」のだ、と。
そんなわけで、何がきっかけかは本当に思い出せないのだけれど、どういうわけかわたしの身体の中にあった「走る」というスイッチがオンになってしまった。
それは自分にとってとても不思議なことで、僥倖とも言えることなのだけれど、「だから何なのだ?」という思いも依然としてあった。
走るからって、動くからって、だからなんだっていうの?と。
わからない。いや、本当は結論に書きたい感じのこともある(なぜなら、今ちょうど次回の特集記事になる予定の”生きて死ぬ私たちの「元気」のこと。~「動く」ということが私たちにくれるギフト~”の原稿チェックしているとこだから)。
けれど、こればっかりは言葉で、頭で、伝わっても本当に仕方のないこと。
ヨガでもいい、太極拳でもいい、キックボクシングでもフットサルでもなんでもいいのだけれど、身体の中に眠っている「動く」スイッチを、オンにしてみてほしいと思う。
その前に、頭がきっと「ヨガがいいかな?太極拳がいいかな?」とか「通いやすいスタジオあるかな」とか、情報を求めてしまうと思う。情報を求める頭は、実は停滞モードだったりする。
走る。は、とてもシンプルだ。
駅に行く途中、今日だけヒールをやめて、ウェアなんてなくてもいい、スニーカーとジーパンにしてみよう。
手ぶら……は無理だけれど、荷物もコンパクトにしてみて。
そして、いつもだったら同じペースで歩いている道の、ちょっと遠くに見える電柱のところまで。
そこまで、本当に軽く、優しく、ふわっと、ちょっとだけ走ってみてほしい。
とてもゆっくりでも、早歩きの人に抜かされるくらいのスピードでも、きっとあなたの身体はびっくりすると思う。びっくりして、すぐに心拍数を上げてくれて、すぐに軽く汗もかかせてくれるはずだ。
その時、ただ早く足を前後に動かしているだけのようで、身体の中ではありとあらゆることが停滞から活性へとモードチェンジしている。
停滞、から、活性、へ。
ない、から、ある、へ。
本当はもしかしたら、どうにもならないことを動かすためにどんな複雑なこともいらなくて。
ゆっくりこの世界を駆けてみる。
それだけが、今のわたしたちに必要なことかもしれない。
鮫島 未央
米国IBA認定ボディートーク施術士。
「人にとって本当の幸福とはなにか?」という疑問が物心ついた時からあり、心理・哲学・人智学・精神世界・ボディーワークなどあらゆる分野を学んできました。それでも「うまくいく人とそうでない人」が生まれてしまう不全感をどこかに感じていましたが、ボディートークに出会い、その効果を自分自身で体感し「ここにすべてがある!やっと出会た!」と感じました。自然に心身を回復し、本来のその人そのものを輝かせてくれるボディートークを、一人でも多くの方に届けたいと思う日々です。プライベートでは二児の母。好きな食べ物は生ハムと牡蠣。